この前、作曲家の坂本龍一が出演しているテレビ番組を見た。 相変わらず番組名はわからない。 で、その中でカーボンオフセットについての話題があった。 例えば、コンサートを開くのに使った分のCO2(二酸化炭素)を吸収する分の緑を育成する費用を募金する。
その時に、ひとつの例としてコンサートを開く、という事に対して具体的に数字を出していたのだが、それが思った以上に安かった。 まあ、それだけ「コンサート」からは二酸化炭素が排出されない、という事なのでしょうけど。 しかし、私にはそれが釈然としなかったのです。
それは、お金さえ出せばいいのか?という疑問。 この言葉が私の口から出ることに違和感を持つ人もいるでしょう。 私は、お金で解決できることはお金で解決すればよい、と公言して憚らないので。 しかし、この問題はお金で解決できる問題なのでしょうか? むしろ、お金を出す、という事によって、二酸化炭素を排出することの意味をすり替えるだけなのではないか? お金を出すことで、二酸化炭素を排出することを正当化させることになるのではないか? 排出した分はお金払ってるんだから問題ないでしょ?という意識が芽生えてしまうのではないか? 最初に思ったのはそういうことでした。 あと、例えばコンサートを開く場合、使うのは電気だけではありません。 機材を運んだりするのに使うトラックもその対象に含めるべきではないでしょうか? そして、コンサートを見に来るお客さんの交通手段。 また、人間は呼吸するだけで酸素を消費し、二酸化炭素を排出します。 それらも含めると、とんでもなく大きな金額になるのではないか。 カーボンオフセット自体を否定するつもりはありません。 まったく募金しないよりははるかにましでしょう。 しかし、カーボンオフセットが、自然エネルギー使用することの免罪符として存在しているようで危険だなと思いました。